北畠神社と庭園

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2016年9月

<北畠神社>

 美杉ふるさと資料館から北へ歩くとすぐに北畠神社が鎮座する。拝殿の壁には天狗の面が掲げられている。後醍醐天皇が比叡山から吉野へ拠点を移したということは、大峰山の修験者たちの勢力を配下に従えたということでもある。そんな後醍醐天皇の柱石であった北畠氏は、同じく修験道とのつながりを強くしていたのではないだろうか。伊勢山上を中心としたネットワークを張り巡らせ、一志米の補給ルートの確保にも重要であった証左ではないかと、田畑美穂は語っている。面白い着眼点だと思う。
 神社由緒によると、九世具房(ともふさ)の4代後の孫にあたる鈴木孫兵衛家次が寛永二十年(1643年)に、この地に小祠を設け北畠八幡宮と称したのが創祀という。当初は八幡神の勧請のみであったが、初代顕能(あきよし)を奉祀したのは元禄年間を下るといわれている。その後、八幡三神に倣い、親房と顕家を合祀する。明治14年に北畠神社と改称し、40年には多芸村内の16社を合祀する。大正5年に宝庫や社務所などを整備し、昭和3年に社殿を新造して主神を遷座し、別格官幣社に昇格した。拝殿前には建武の中興(建武の新政)に尽力した南朝側の後醍醐天皇とその忠臣たちを祀る15の神社が示されている。

吉野神社(奈良県吉野町)  後醍醐天皇
鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)  護良親王
井伊谷宮(静岡県浜松町)  宗良親王
八代宮(熊本県八代市)   懐良親王、良成親王
金崎宮(福井県敦賀市)   尊良親王、恒良親王
小御門神社(千葉県成田市) 藤原師賢
菊池神社(熊本県菊池市)  菊池武時、菊池武重、菊池武光
湊川神社(兵庫県神戸市)  楠木正成
名和神社(鳥取県西伯郡)  名和長年
阿部野神社神社(大阪市)  北畠親房、北畠顕家
藤島神社(福井市)     新田義貞
結城神社(三重県津市)   結城宗広
霊山神社(福井県霊山町)  北畠親房、北畠顕家、北畠顕信、北畠守親
四條畷神社(大阪府四條畷市)楠木正行、楠正時
北畠神社(三重県津市)   北畠親房、北畠顕家、北畠顕能

 上記の建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持つのは北畠氏ゆかりの北畠神社だけである。さらに北畠親房を祀る神社が3社もあることから、後醍醐天皇にとって北畠氏がいかに忠義な臣下であったかが想い知れる。建武の新政とは、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇が「親政(天皇自らが政治を執行する)」を行うことにより成立した政権ならびにその新しい政策(新政)をいう。その名称は1334年に定められた「建武」の元号に由来している。
 後醍醐天皇は親政によって朝廷主導の政治を復権しようとしたが、旧北条氏など武士層を中心とした従来勢力からの不満を招き、建武二年(1335年)には、河内源氏の有力者であった足利高氏が離反して、新政側の最大勢力であった新田義貞を箱根山で破り、翌年には湊川の戦いで楠木正成らを撃破したことにより、新政は2年半で瓦解した。性急な改革、恩賞の不公平さ、朝令暮改(法令がすぐ変更されて一定しない)を繰り返す政策、貴族・寺社・武士に至るまで広範な既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画など非現実的な経済政策、などなど施策の大半が政権批判へとつながっていった。
 また、武士勢力からの不満だけではなく、公家たちの多くは冷ややかな態度をとり無能と批判するなど、天皇の権威は全く失墜してしまった。入京した高氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立した。後醍醐天皇は足利方と和睦し三種の神器を渡すが、すぐに京都を脱出し吉野へと逃れ吉野朝廷(南朝)を成立させた。先に渡した神器は偽物で自分こそが正統な天皇であることを宣言したのである。ここに、京都の朝廷(北朝)と吉野朝廷が対立する南北朝時代が到来し、その争いはおよそ60年間にわたって続いた。
 後醍醐天皇は、徳治三年(1308年)に花山天皇の即位に伴って立太子し、31歳で譲位を受け践祚する。30代での即位は後三条天皇以来250年ぶりになる。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行うも、遺言状に基づき、後醍醐天皇の兄の後二条天皇の遺児である邦良親王が皇位に着くまでの中継ぎとして位置付けられていたため、後醍醐天皇が自分の子や孫に皇位を継がせることは黙殺されてきた。不満を募らせた後醍醐天皇は徐々に鎌倉幕府への反感を募らせていく。後宇多法皇の院政を停止し、後醍醐天皇の親政が開始される前年に、邦良親王に男子(康仁親王)が生まれる。皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の君主となったのは大きな謎といわれている。

肖像集 北畠顕家

 神社の脇には北畠顕家の像が建っている。台座には「花将軍」と彫られている。顕家の官位は正二位・権大納言兼鎮守府大将軍で若く凛々しい将軍であったという。顕家は足利高氏が叛いた建武二年に高氏に代わって鎮守府将軍に任ぜられているが、三位以上のものがこの職に任ぜられると「大」の字を加えて「鎮守府大将軍」となる。征夷大将軍は引き続き護良親王が任ぜられていたかどうかは不詳である。
 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が北山第での花の御宴に行幸した際、14歳の顕家もこれに供して「陵王」を舞った。『増鏡』によると、この時帝も笛を吹き、顕家が舞い終えた後、前関白の二条道平が自分の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという。

「(前略)暮れかゝるほど、花の木の間に夕日花やかにうつろひて、山の鳥の聲をしまぬほどに、陵王のかゞやきて出でたるは、えもいはず面白し。その程、上も御引直衣にて、椅子につかせ給ひて、御笛吹かせたまふ。常より殊に雲井を響かすさまなり。宰相中将顕家、陵王の入綾を、いみじうつくしてまかづるを召しかへして、前関白殿御衣とりてかづけ給ふ。紅梅のうはぎ、二藍のきぬなり。左の肩にかけて、いさゝか一曲舞ひてまかでぬ。(後略)」

 また『舞御覧記』によれば、顕家の容姿に関して、「この陵王の宰相中将君は。この比世におしみきこえ給ふ入道大納言の御子ぞかし。形もいたいけしてけなりげに見え給に。(幼くてかわいらしく、態度は堂々としている)」とあり、後醍醐天皇はこの時から、顕家を花陵王(かりょうおう)と呼んでいたようである。
 顕家は史上最年少で参議に任じられるなど父親房同様に順調に出世をしていった。と同時に戦いにも抜きん出ていたものがあった。朝廷から高氏追討を宣じられた新田義貞を総大将とする軍勢は、一路鎌倉へと馳せて行ったが、逆に高氏に打ち破られ、足利軍は京へ迫る勢いであった。これを打ち負かしたのが顕家軍で、建武三年(1336年)二月に再度の入京を目指す尊氏を摂津国豊島河原で破り、足利軍を九州へと追いやった。足利軍の将兵たちは「顕家卿は花将軍ならぬ鬼将軍である」と口々に漏らしたことであろう。
 しかし五月に入り尊氏が三度東上すると、湊川で新田義貞・楠木正成の軍を破り再び京を制圧した。光明天皇(北朝)から征夷大将軍に任じられた尊氏は、翌年に入ると逆に高師泰・師冬、細川頼春、佐々木氏頼(六角氏頼)・高氏(佐々木導誉)らに顕家討伐を命じる。陸奥へ帰還していた顕家は、鎌倉を攻略し尾張を経由し伊勢へと入っていた。高師泰をはじめとする北朝軍と雲出川や櫛田川で戦うも決着がつかず、三条口へ打って出たものの般若坂の戦いで桃井直常に敗れ河内国へと退いた。体制を整え天王寺、阿倍野、河内片野などで一進一退を繰り返すが、阿倍野で敗れ和泉国に転戦した。
 この時、顕家は東国経営の文章を草し、後醍醐天皇に上奏した。これが『顕家諫奏文』とも『顕家上奏文』ともいわれているものである。七か条から成っているが、巻頭が欠けているためもっと多かったのかもしれない。顕家自筆の上奏文は失われているが、京都伏見の醍醐寺三宝院には草案の写本が残されている。

北畠顕家の上奏文


(顕家上奏文)//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

【原文】
(前缺)鎭将各令知其分域、政令之出在於五方、因准之處、似弁故實、元弘一統之後、此法未周備、東奥之境、纔靡皇化、是乃最初置鎭之効也、於西府者、更無其人、逆徒敗走之日、擅履彼地、押領諸軍、再陷帝都、利害之間、以此可觀、凢諸方鼎立而猶有滯於聽斷、若於一所決斷四方者、萬機紛紜、爭救患難乎、分出而封侯者、三代以往之良策也、置鎭而治民者、隋唐以還之權機也、本朝之昔、補八人之觀察使、定諸道之節度使、承前之例、不與漢家異、方今亂後、天下民心輙難和、速撰其人、發遣西府及東關、若有遲留者、必有噬臍悔歟、兼於山陽・北陸等各置一人之藩鎭、令領便近之國、宜備非常之虞、當時之急無先自此矣。

【読み】
(前欠)鎮将(1)、各々その分域を知らしめ、政令の出ずるや、五方に在り(2)。因て之に准ずる(3)ところ、故実を弁(わきま)うるに似たり。元弘一統の後、この法いまだ周備せず。東奥の境、纔(わずか)に皇化に靡(なび)くは、これすなわち最初の鎮を置くの効(しるし)なり。西府(4)に於ては、更にその人なし。逆徒敗走の日、擅(ほしいまま)にかの地を履(ふ)み、諸軍を押領し、再び帝都を陥る。利害の間、これを以て観るべし。およそ諸方鼎立するも、なお聴断に滞りあり。もし一所に於て四方を決断すれば、万機紛紜(5)(ばんきふんうん)いかでか患難を救わんや。分かち出して侯に封ずるは、三代(6)以往の良策なり。鎮を置いて民を治むるは、隋唐以還の権機(ごんき)なり。本朝の昔、八人の観察使を補し、諸道の節度使を定む。承前の例、漢家と異ならず。方今(7)乱後、天下の民心輙(たやす)く和しがたし。速かにその人を撰んで、西府(4)および東関(8)に発遣せよ。もし遅留あらば、必ず噬臍(9)(ぜいせい)の悔あらんか。兼て山陽・北陸等に各一人の藩鎮を置き、便近の国を領せしめ、よろしく非常の虞(おそれ)に備うべし。当時の急ぎ、これより先なるはなし。

(1)鎮将=探題の長:中国は北魏の時代に、州や郡に駐屯する軍団(鎮)を設立し、その長を鎮将(zhen-jiang)と呼んだ。隋・唐の時代もこれを引き継ぎ、辺境防衛拠点の長を鎮将と呼びならわした。
(2)五方に在り:鎌倉時代に生じた承久の乱(承久三年:1221年)後に、朝廷の動向を監視するために六波羅探題が設置された。建治二年(1276年)には元寇に対処するため、長門国に最前線防衛機関が設置された。さらに永仁元年(1293年)には西国(九州)統括のため、鎮西談議所を廃止して新設した。奥州探題は室町時代に入ってから設置された。鎌倉時代直前には文治五年(1189年)に生じた奥州合戦の戦後処理のための臨時職であった奥州惣奉行が置かれていたが、この役職が後に奥州総大将、奥州管領へと受け継がれていったと考えられるが詳細は不明である。これに鎌倉幕府を加えた5つの機関がそれぞれ適宜、政令を発していたことを述べていると思われる。
(3)因准=先例に習うこと
(4)西府=九州
(5)紛紜=物事が入り乱れていること
(6)三代=中国の古代王朝である夏・殷・周と考えられている
(7)方今=まさに今
(8)東関=東北
(9)噬臍=臍(ほぞ)を噬(か)む、後悔すること

【意味】
(前欠)元弘一統ののち、奥羽が直ちに皇化になびいたのは、鎮守府を置かれたからであり、九州にはそれが置かれなかったため、足利尊氏が敗走すると、直ちにかの地を占領し、諸軍を集めて、再び京都を陥し入れたのであります。鎮守府を置くことの得失は、これによって明かでございます。およそ諸方が鼎の立っている如くに分封せられていても、聖断を達することは渋滞しやすいのであります。いわんや一所において、四方のことを決断なされると、万機は
紛紜として患難を解決することができません。諸侯を分封することは夏虞三代以来の良策であり、藩鎮を置いて民を治めることは隋唐以来のはかりごとであります。わが国でも上古には八人の観察使を置き、諸道の節度使に任じたのであります。わが国の前例も漢家のそれと異ならないのであります。いまわが国は未曾有の大乱に際会し、天下の民心は容易に和し難くなっております。この際は速かに適当な人を選んで、九州と関東に発遣して、その地方を統御さるべきであります。もし遅滞されるならば、後に悔いても及ばぬことになりましょう。なおそのほか山陽道、北陸道等にも各一人の藩鎮を置いて、附近の国を領せしめ、非常の事態に備えらるべきだと存じます。今日の急務として、これより先なるものはないと思います。


【原文】
 可被免諸國租税專儉約事
右、連年兵革諸國牢籠、苟非大聖之至仁者、難致黎民之蘇息、從今以後三年、偏免租税、令憩民肩、没官領・新補地頭等所課同從蠲免、其祭祀及服御等用度者、別撰豐富之地、以宛供奉之數、三ケ年間、萬事止興作、一切斷奢侈、然後卑宮室以阜民、追仁德天皇之餘風、節禮儀而淳俗、歸延喜聖主之舊格者、垂拱而海内子來、不征而遠方賓服爲。

【読み】
 諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事
右、連年の兵革(1)に諸国牢籠(2)(ろうろう)す、苟しくも大聖(3)の至仁(4)にあらざれば、黎民の蘇息(5)を致しがたし。今より以後三年、偏えに租税を免じ、民の肩を憩わしめよ(6)。没官領・新補地頭等課する所、同じく蠲免(7)(けんめん)に従う。その祭祀および服御(8)(ふくご)等の用途は、別に豊富の地を撰んで、以て供奉(9)(ぐぶ)の数に充て、三ヵ年の間、万事興作(10)を止め、一切の奢侈を断つ、しかる後、宮室を卑(ひく)くして以て民を阜(ゆた)かにし、仁徳天皇の余風(11)を追い、礼儀を節して俗を淳(あつ)うし、延喜聖主(12)の旧格に帰せば、垂拱(13)(すいきょう)して海内(14)子来し、征せずして遠方賓服(15)せし。

(1)兵革=戦争
(2)牢籠=苦境に立つこと
(3)大聖=もっとも優れた聖人、ここでは後醍醐天皇を表す
(4)至仁=このうえなく恵み深いこと
(5)蘇息=安堵すること
(6)肩を憩わしめよ=肩を休めさせよ、という直訳だが、ここでは免税措置による民への負担軽減を強いている
(7)蠲免=古代において、官位・職務などや災害・慶事などで課役の一部や全部を免除すること
(8)服御=衣服を着たり、食べ物を摂取すること
(9)供奉=行幸や祭礼などで、お供の行列に加わること。またはその人(お供)。
(10)興作=新たに造ること
(11)仁徳天皇の余風=「民の竈」の逸話。仁徳四年(316年)、高殿から一望した天皇は、民家から炊煙が立ち上っていないことに気づき、民の貧しさゆえと考えた。以後3年間は課税を免じて、天皇自身も質素倹約を心がけた。3年後には民の暮らしも豊かになり、炊煙も上がるようになったという。
(12)延喜聖主=「延喜の治」と呼ばれた醍醐天皇の善政。藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣に据え、班田の励行、勅旨田の新規開墾禁止など律令制度の維持に努め、「延喜格式」の撰進・施行、『日本三代実録』『古今和歌集』の編纂など、文化事業も積極的に進めた。
(13)垂拱=《衣の袖を垂れ、手をこまねく》という意味から、何もせず、なすがままに任せること。天下がよく治っているたとえに用いられる。
(14)海内=四海の内という意味から、国内とか天下をいう
(15)賓服=ぴったりと従う、来朝して服従する

【意味】
 連年の戦乱のため、諸国は全く疲弊しております。この際には大聖のごとき仁慈の心を以て政治にあたられなければ、人民の苦しみを救うことはできないと思います。そこで本年より三年間、あらゆる租税を免除して民の負担を軽くすべきであります。祭祀および天皇の供御のための用途は、別に豊かに富んだ土地を選んで、これにあて、三年の間すべての新規事業をやめ、一切の奢侈を禁じ、仁徳天皇の余風を目標として宮室を質素にして民を豊かにされ、また醍醐天皇の聖代の制度を仰いで礼儀をととのえ、風俗を淳厚にされますならば、じっとしておられましても天下の人民は雲の如くに集まってきて御用をつとめ、また武力を用いられなくとも遠方の人々も喜んで心服することでありましょう。


【原文】
 可被重官爵登用事
右、有高功者、以不次之賞、和漢通例也、至干無其才者、雖有功、多與田園、不與名器、何況無德行、無勳功、而猥黷高官高位哉、維月之位者、朝端之所重、青雲之交者、衆外之所撰也、非其仁而僥倖之者、近年繼踵、加之或起家之族、或武勇之士、經先祖歴之名、望文官要劇之職、各存登用之志存、恣關不次之恩、向後之弊、何爲得休、凢名器者、猥不假人、名器之濫者、僭上之階也、然乃任官登用、須撰才地、雖有其功、不足其器者、厚加功祿、可與田園、至士卒及起家奉公之輩者、且逐烈祖昇進之跡、且浴随分優異之恩者、何恨之有焉。

【読み】
 官爵の登用を重んぜらるべき事
右、高き功あれば、不次の賞を以てするは、和漢の通例なり。その才なきに至りては、功ありといえども、多く田園を与え名器を与えず。なんぞ況んや徳行なく勲功なくして、猥(みだ)りに高官高位を黷(けが)すものをや。維月の位は朝端の重んずるところ、青雲の交は衆外の撰ぶところなり。その仁にあらずして僥倖の者、近年踵を継ぐ。しかのみならず或いは起家の族、或いは武勇の士、先祖経歴の名を軽んじ、文官要劇の職を望み、各登用の志を存し、恣(ほしいまま)に不次の恩に関る。向後の弊(1)なんすれぞ休むことを得ん。およそ名器は猥(みだ)りに人に仮さず、名器の濫(みだ)りなるは僭上(2)の階なり。しかればすなわち任官登用はすべからく才地を撰ぶべし。その功ありといえどもその器に足らざれば、厚く功禄を加え田園を与うべし。士卒および起家奉公の輩に至りては、且は烈祖昇進の跡を逐い、且は随分優異の恩に浴せしめ、なんの恨かこれあらん。

(1)弊=習わしとなった悪さ、よくない習慣
(2)僭上=身分を越えて出すぎた行いをすること

【意味】
 大巧のあるものに特別の恩賞を与えることは和漢の通例であります。しかし才能のない者には、いかに功がありましても、土地を与えるだけで、官爵を与えてはならないことになっております。いわんや、徳行も勲功もないのに、みだりに高位高官をけがすことは許されないのであります。高位高官は朝廷の最も重んぜらるべきもので、これに任ずるのは特別にすぐれた人物でなければなりません。ところがその人にあらずして、僥倖にこれに任ぜられるものが近年非常に多いのであります。また成り上りの者や武士などが先祖の経歴を無視し、朝廷の重要な官職を望み、高い地位に登用せられんことを願い、特別の恩恵にあずかろうとしておりますが、これは今後大きな弊害をひきおこすことでありましょう。およそ官爵はみだりに人に与うべきものではありません。これは天子が以て臣下を御するところのものであり、官爵がみだりになるのは、下のものが上を軽んずるもとになるのであります。任官登用には才能と家柄とを以てなさるべきであり、たとえ功がありましても、その才能のないものは厚く封禄をまし、土地を与えらるべきであります。士卒および成り上りの家の者で、奉公につとめるものは、代々の昇進のあとに従い、特別に優待の方法を請うぜられるならば、足りると存じます。


【原文】
 可被定月卿雲客僧侶等朝恩事
右、拝趨朝廷、昵近帷幄朝々暮々、咫尺龍顔、年々歳々、戴仰鴻慈之輩、縦盡其身、爭報皇恩、爰國家亂逆、宸襟不聊、或移乘輿於海外、或構行宮於山中、作人臣而竭忠義者此時也、然而存忠守義者幾許乎、無事之日、貪婪大祿、艱難之時、屈伏逆徒、非亂臣賊子而何哉、罪死有餘、如此之族、何以荷負新恩乎、僧侶護持之人、又多此類也、逮于邊域之士卒者、雖未染王化、正君臣之禮、懐忠死節之者、不可勝計、惠澤未遍、政道一失也、然者以無功諸人新恩之跡、可分賜士卒歟、凢以元弘以來沒官・地頭職者、被閣他用、配分有功之士、以國領及庄公等本所領者、被擬宦官道俗之恩者、朝禮不癈黜其人者、誰又弁朝廷之故實、刷冠帯之威儀乎、近年依士卒之競望、多收公相傳之庄園、理之所推、縡非善政、然者於累家私領者、須被返其家、随公務之忠否、追可有黜陟也、至今度陪從之輩、并向後朝要之仁者、尤定計畧之分限、可被計行拝趨之羽翼乎。

【読み】
 月卿・雲客・僧侶等の朝恩を定めらるべき事
右、朝廷に拝趨(1)(はいち)し、帷幄(2)(いあく)に昵近(3)(じっきん)し、朝々暮々竜顔に咫尺(4)(しせき)し、年々歳々鴻慈(5)(こうじ)を戴仰(6)(たいぎょう)するの輩、たといその身を尽くすとも、いかでか皇恩に報ぜん。ここに国家乱逆、宸襟(7)聊(やすら)か(8)ならず。或いは乗輿(9)を海外に移し、或いは行宮を山中に構えらる(10)。人臣と作て、忠義を竭(つく)すはこの時なり。しかれども、忠を存し義を守るは幾許(いくばく)ぞや。無事の日は大禄を貪婪(11)(たんらん)し、艱難の時は逆徒に屈伏す。乱心賊子(12)にあらずして何ぞや。罪死して余りあり。此のごときの族、何ぞ以て新恩(13)を荷負(14)せんや。僧侶護持の人、また多くこの類なり。辺域の士卒に逮(およ)んでは、いまだ王化に染まずといえども、君臣の礼を正し、忠を懐(なつ)き節に死するのは、勝(あげ)て計(はから)うべからず。恵沢(15)いまだ遍(あまね)からざるは政道の一失なり。しからば功なき諸人の新恩(13)の跡を以て、士卒に分ち賜うべきか。およそ元弘以来の没官・地頭職を以て、他用を閣(さしお)かれ有功の士に配分し、国領および庄公(16)等本所領を以て、宦官道俗の恩に擬せらるれば、朝礼廃れず勲功空しからざるか。そもそもまた累葉(17)の家々不忠の科(18)、悪(にく)むべしといえども、偏(ひと)えにその人を廃黜(19)(はいちゅつ)せば、誰かまた朝廷の故実を弁(わきま)え、冠帯の威儀を刷(つくろ)わんや。近年士卒の競望により、多く相伝(20)の庄園を収公(21)せらる。理の推すところ、縡(こと)善政にあらず。しからば累家の私領においては、すべからくその家に返さざる、公務の忠否に随いて、追て黜陟(22)(ちゅっちょく)あるべきなり。今度陪従(23)の輩ならびに向後朝要の仁に至りては、尤も計略の分限を定め、拝趨(1)の羽翼を計り行わせらるべきか。

(1)『日本古典文學大系87 神皇正統記・増鏡』によれば趨の旁は「芻」ではなく「多」と表記されており、「ハイチ」とルビがふられている。「拝趨」なら解るが、「拝(走+多)」では調べがつかない。『日本思想大系22 中世政治社會思想 下』では「拝趨(はいすう)」と解釈している。拝趨=参上
(2)帷幄=垂幕(帷)と引幕(幄)、陣営に幕を張り巡らせたことから、作戦を練る場所、大将の陣営を表す
(3)昵近=慣れ親しむこと。昵懇
(4)咫尺=距離が極めて近いこと
(5)鴻慈=皇恩
(6)戴仰=おしいただく
(7)宸襟=天子の心
(8)聊か=少しも。まったく
(9)乗輿=天子が乗る輿
(10)山中に構えらる=吉野山に構える
(11)貪婪=ひどく貪ること。「どんらん」とも
(12)乱心賊子=国を乱す悪臣と親に背いて悪事をはたらく子どもで、不忠不孝の者をいう
(13)新恩=幕府や大名が家臣に勲功の賞として与えた土地
(14)荷負=負荷と同じであれば、任務を追うこと、または任務を果たすこと
(15)恵沢=めぐみ。なさけ。
(16)庄公=荘園のことか。権門勢家の庄公を論ぜず(『吾妻鏡』文治元年十一月二十八日条)
(17)累葉=「葉」は時代の意味で、世を重ねること。累代、累世に同じ
(18)科=とが。罪
(19)廃黜=官職を取り上げ退けること。罷免
(20)相伝=代々受け継ぐこと。代々受け伝えること
(21)収公=国家や幕府が租税や土地を没収すること
(22)黜陟=官位を上げること、下げること
(23)陪従=供奉。行幸や祭礼などで、お供の行列に加わること。またはその人(お供)

【意味】
 平素、朝廷に仕え、朝夕、陛下のお側に奉仕し、毎年厚い御恩をうけているものどもは、たとえその身をさしあげても皇恩に報いきれないでありましょう。今や国家の大乱に際会して宸襟やすからず、あるいは陛下が隠岐の島に移られ、あるいは吉野の山中にお住まいになるという状態であります。人臣として忠義をつくすのは、正にかかる際であります。しかるに今日、真に忠義をつくすものがどれだけいましょうか。ほとんどいないのであります。平和の時には大禄をむさぼり、非常の時局には賊徒に屈伏してしまっているのでありますが、これでは乱臣賊子に外ならないというべきであり、その罪死して余りあるのであります。このような連中が新しく恩賞をいただく資格は全くないのであります。祈祷で護持する任に当っている僧侶もまた多くこれと同類であります。これらに反しまして、辺域の士卒たちは、まだ陛下のお側に近づいたことはないのでありますが、君臣の礼を正し、忠を懐き節に死するものはかぞうるにたえないほどでございますのに、お恵みの遍く及んでおりませんのは、政道の一矢と申さねばなりません。そこで私は手柄もない人に新しく恩賞として与えられた土地をとりあげ、これらの士卒に分ち賜わりたいと存じます。鎌倉幕府滅亡後、朝廷に没収された地頭の所領は、他用をさしおいて有功の武士に配分され、国司支配の土地および公家や寺院の荘園を公家や僧侶の恩賞にあてることにしましたならば、朝廷の礼式もすたれず、勲功に報いることもできるかと存じます。
 なおまた累代、朝廷に仕えている家でありながら、不忠なものは、その科は悪むべきことでありますが、その人を全くやめ退けてしまいますと、朝廷の故実をわきまえ、儀式の威厳をととのえる人がいなくなってしまう恐れがございます。近年、士卒が競望しますので、累代の家に相伝の荘園が収公され、かれらに与えてしまうのは、理の推すところ善い政治とは申せません。従って累代の家に相伝の領地はひとまずそれぞれの家に返却され、今後の公務の勤務ぶりに従って賞罰さるべきであります。また今度、吉野に従って来た人々、ならびに今後の政治に肝要な人物については、それぞれの分限を定め、朝廷に仕えることができるようになさるべきであります。


【原文】
 可被閣臨時行幸及宴飲事
右、帝王所之、無不慶幸、移風俗救艱難之故也、世莅澆季民墜塗炭遊幸宴飮、誠是亂國之基也、一人之出時、百僚卒從、威儀過差費、以萬數、況又宴飮者鴆毒也、故先聖禁之、古典誡之、伯禹歎酒味而罰儀狄、周公制酒誥而諫武王、草創雖守之、守文猶懈之、今還洛都、再幸魏闕者、臨時遊幸、長夜宴飮、堅止之、明知前車覆、須爲後乘之師、萬人之所企望、蓋在於此焉。

【読み】
 臨時の行幸および宴飲を閣(さしお)かせらるべき事
右、帝王の之(ゆ)くところ、慶幸せられざるなし。風俗を移し、艱難を救うの故なり。世澆季(1)(ぎょうい)に莅(のぞ)み、民塗炭に墜つ。遊幸宴飲はまことにこれ乱国の基なり。一人の出ずるとき、百僚卒い従い、威儀過差の費、万を以て数う。況んやまた宴飲なるは鴆毒(2)(ちんどく)なり。故に先聖これを禁じ、古典これを誡む。伯禹(3)は酒味を歎じて儀狄(4)を罰し、周公(5)は酒誥を制して武王(6)を諫む。草創これを守るといえども、守文(7)なおこれを懈(おこた)る(8)。今洛都に還り、再び魏闕(9)(ぎけつ)に幸したまわば、臨時の遊幸、長夜の宴飲、堅くこれを止められ、深くこれを禁ぜられよ。明らかに前車の覆るを知り、すべからく後乗の師となすべし。万人の企望するところ、けだしここにあり。

(1)澆季=道徳が衰え乱れた世。末世
(2)鴆毒=鴆という鳥の羽にある猛毒、転じて猛毒、毒物
(3)伯禹=古代中国の夏王朝の禹王
(4)儀狄=夏王朝で初めて酒を造ったという伝説上の人物
(5)周公=古代中国の周王朝の政治家で、兄の武王を助けて殷を滅ぼした
(6)武王=周王朝の創始者。殷の紂王を討って天下を統一した
(7)守文=君主が始祖の残した法律・制度を守って国を治めること
(8)懈る=やらなければならないことをしないで怠ける
(9)魏闕=宮城の門のことですなわち朝廷

【意味】
 天皇がお出ましになると、みな慶賀申し上げるのは、行幸によって正しい風俗を地方にうつし、民の艱苦を直接御覧になって、これを救われることによるからであります。しかしながら世の中が乱れ、人民が生活に苦しんでいる時に、遊幸宴飲されるのは実に国が乱れる基というべきであります。行幸に際し、百官を率いて威儀をととのえ、贅沢をきわめますので、その費用は莫大なものであります。しかも宴会は健康をそこねるのであります。そのため昔の聖人もこれを禁じ、古典にもこれを誡めてあります。国家草創の際にこの戒めを守りましても、守成の際にはこれを懈るようになりやすいのであります。今度、京都を回復し、宮城にお入りになられましたならば、臨時の遊幸、長夜の宴会は厳重にこれを禁止されたく存じます。建武の失敗を鑑みとされまして、今後の戒めとなさっていただきたいのでありますが、他の人々の希望するところもここにあると存ぜられます。


【原文】
 
可被嚴法令事
右、法者理國之權衡、馭民之鞭轡也、近曾朝令夕改、民以無所措手足、令出不行者、不如無法、然則定約三之章兮、如堅石之難轉、施畫一之教兮、如流汗之不反者、王事靡盬、民心自服焉。

【読み】
 法令を厳にせらるべき事
右、法は国を理するの権衡(1)(けんこう)、民を馭(ぎょ)する(2)の鞭轡(3)(べんひ)なり。近ごろ朝に令して夕に改む。民以て手足を措(お)くところなし。令出て行われざれば、法なきにしかず。しからば則ち、約三の章を定めて、堅石の転じがたきがごとくし、画一の教を施して、流汗の反らざるごとくせば、王事もろきこと靡(な)し(4)、民心自ら服せん。

(1)権衡=物事の軽重を測る尺度。つりあい。はかり。
(2)馭する=統治する
(3)鞭轡=ムチと手綱
(4)王事もろきこと靡し=王室の関与することは堅固であり敗れることはない、または王の事業は堅固でなければならないということ《「詩経」唐風・鴇羽から》

【意味】
 法律は国を治めるのに標準となるものであり、人民を統御するのに手づなとなるものであります。近ごろ朝令暮改、しきりに法律がかわり、人民はこれを信頼することができないのであります。法令が出ても、行われないならば、法令などはない方がよいのであります。法令を出される以上、きわめて簡単な条章を定めて、大盤石の転じ難きが如く不動のものとし、法令を施行すること、流汗のかえらざる如く変更しないというようにすれば、朝廷の権威は確立し、民心は自ら帰服するでありましょう。


【原文】
 可被除無政道之益寓直之輩事
右、爲政有其得者、雖蒭蕘之民、可用之、爲政有其失者、雖閥閲之士、可捨之、頃年以来、卿士官女及僧侶之中、多成機務之蠧害、動黷朝廷之政事、道路以目、衆人杜口、是臣在鎭之日、所耳聞而心痛也、夫擧直措枉者、聖人之格言也、正賞明罰者、明王之至治也、如此之類、不如早除、須明黜陟之法、闢耳目之聽矣、陛下不從諫者、泰平無期、若從諫者、清粛有日者歟、小臣元執書卷、不知軍旅之事、忝承糸綍詔跋渉艱難之中、再擧大軍、齊命於鴻毛、幾度挑戦、脱身於虎口、忘私而思君、欲却惡歸正之故也、若夫先非不改、太平難致者、辭符節而逐范蠡之跡入山林以、學伯夷之行矣、

【読み】
 政道の益なき寓直の輩を除かれるべき事
右、政をなすにその得あらば、芻蕘(1)(すうじょう)の民といえどもこれを用いるべし。政をなすにその失あらば、閥閲(2)(ばつえつ)の士といえどもこれを捨つべし。頃年(けいねん)以来、卿士・官女および僧侶のうち、多く機務の蠧害(3)(とがい)をなし、ややもすれば朝廷の政事を黷(けが)す。道路目を以て、衆人口を杜(ふさ)ぐ。これ臣鎮に在るの日、耳に聞きて心に痛むところなり。それ直(なおき)を挙げて枉(まがり)を措(お)く(4)は、聖人の格言なり。賞を正し罰を明らかにするは、明王の至治なり。かくのごときの類、早く除くにしかず。すべからく黜陟(5)(ちゅっちょく)の法を明らかにし、耳目の聴を闢(ひら)くべし。陛下諫に従わざれば、泰平期するなし。もし諫に従わば、清粛日あるものか。小臣もと書巻を執り軍旅の事を知らず。忝(かたじけな)くも 綍詔(6)(ひしょう、ふつしょう)を承けて、艱難の中を跋渉(7)(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて、命を鴻毛(8)に斉(ひとし)うし。幾度か戦を挑みて、身を虎口に脱す。私を忘れて君を思い、悪を却(しりぞ)け正に帰せんと欲するの故なり。もしそれ先非改めず、太平致しがたくば、符節(9)を辞して范蠡(10)の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷(11)の行を学ばん。

(1)芻蕘=芻は草、蕘は木で、草刈りと木こりのこと。転じて身分の低い人のこと
(2)閥閲=立派な家柄。名門
(3)蠧害=物事を損ない害すること
(4)直を挙げて枉を措く=正しい者を用いて心の曲がった者を退ける
 哀公問曰、何爲則民服。孔子對曰、擧直錯諸枉、則民服。擧枉錯諸直、則民不服。
 哀公(あいこう)問うて曰く、何を為(な)さば則(すなわ)ち民(たみ)服(ふく)せん、と。
 孔子対(こた)えて曰く、
 直(なお)きを挙げて諸(これ)を枉(まが)れるに錯(お)けば、則ち民(たみ)服(ふく)す。
 枉(まが)れるを挙げて諸(これ)を直(なお)きに錯(お)けば、則ち民(たみ)服(ふく)せず、と。
 <
正しい人物を挙げ用いて、政治にあたらせれば人民は信服する。> 『論語』為政 第二
(5)黜陟=官位を上げること、下げること
(6)綍詔=
綍は太い綱、詔はみことのり
(7)跋渉=山を踏み越え、水を渡ること。転じて方々を歩き廻ること
(8)鴻毛=鴻毛(おおとり)の羽毛、転じて極めて軽いことのたとえ
(9)符節=割り符。中国では一種の身分証明用の「札(ふだ)」として使用され、剖符とも記す。この制度は、『周礼』『孟子』に「符節」「符節を合す」などの語が見えるように、秦の統一以前から存在していたと考えられる。ここでは官職を喩えていると考えられる。
(10)范蠡=中国の春秋時代から戦国時代にかけて活躍した将軍・宰相で、越王勾践を補佐して呉を滅ぼし、春秋五覇に数えられるまでに功績を残した。しかし覇者となった勾践に対し、「狡兎死して走狗烹らる(狡賢い兎が死ぬと賢い猟犬は煮て食われる)」と文種へ手紙を残し行方をくらます。
(11)伯夷=中国の殷周交代期の頃の伝説的な聖人兄弟の兄。国主であった父の死後、弟と位を譲りあった末に兄弟共々文王の徳を慕って周へ行った。文王の死後、子の武王はすぐに殷の紂王を討ったことを、不孝・不仁として周の食を拒み、首陽山に隠れてワラビを食とし、ついに餓死したという。

【意味】
 政治の為に益のある者は、身分の卑しいものといえどもこれを用うべく、政治の為に害のある者は、門閥の高い人といえども、これを退けるべきであります。近来、側近の公卿、武士、官女および僧侶の中で、多く政務の機密の害となることをし、朝廷の政事をけがす者がたくさんおります。道を歩く人は目くばせしてこれをそしり、多くの人々はこれを知っておりますが、口をとざしております。これは私が奥州の鎮守府にいたとき耳にして、痛心しておるところでございます。一体、正しいものをあげ、枉がったものを退けよということは聖人の格言であります。賞を正しくし、罰を明かにするということは聡明な天子の政治のやり方であります。今日かくの如き政道に益のない側近のボスは早く除くことが大切であります。すべからく無能の者を退け、功労のあるものを取り立てられ、聖明の蔽いを取除かるべきであります。


【原文】
以前條々、所言不私、凢厥爲政之道、致治之要、我君久精練之、賢臣各々潤餝之、如臣者、後進末學、何敢計議、雖然粗錄管見之所及聊擄丹心之蓄懷、書不盡言、言不盡意、伏冀照上聖之玄鑒、察下愚之懇情焉、謹奏、
延元三年五月十五日從二位権中納言兼陸奥大介鎭守府大将軍
                    臣源朝臣顯家上

【読み】
以前条々、言うところ私にせず。およそその政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれに精練したまい、賢臣各々これを潤飾す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せん。しかりといえども、粗(ほぼ)管見(1)の及ぶところを録して、いささか丹心の蓄懐をのぶ。書は言を尽くさず、言は意を尽くさず(2)。伏して冀(ねがわ)くは、上聖の玄鑑(3)を照し、下愚(4)(かぐ)の懇情(5)を察せられんことを。謹んで奏す。
延元三年(1338年)五月十五日従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍
                       臣源朝臣顕家上る

(1)管見=自分の知識・見解・意見をへりくだって言う
(2)書は言を尽くさず、言は意を尽くさず=
(3)玄鑑=はっきりと見通す心
(4)下愚=はなはだ愚かであること、もしくはその人
(5)懇情=親切で真心を尽くした心配り

【意味】
 以上に申上げました条々は、私のためではございません。およそ政治をなさる道については陛下が多年の間苦心なされ、また賢臣がみなお助け申上げておりますので、私の如き後進末学の者の差し出る幕ではございません。しかし私の聞知しましたところを記し、少しく平素私の心にたまっておりました考えを申上げたのであります。しかし私の思うところは充分、文字にあらわせません。何とぞ私の意のあるところを御くみとり願い上げます。

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 七か条を要約すると、概ね下記のようにまとめられる。
 一条 九州・東北に将を配し、山陽・北陸に藩鎮を置き、非常事態に備えよ
 二条 3年間は租税を免じ、質素倹約に務め、国力を蓄えよ
 三条 功績あるものは官位の有無に限らず、十分な報償を与えよ
 四条 朝恩ある公卿・僧侶らの奉公を正しく強いられよ
 五条 臨時の行幸や宴会はひかえられよ
 六条 法令発布は朝令暮改がないよう厳粛にせよ
 七条 無能な者を退け、有能な者は庶民であっても登用せよ

 上奏文の文面は顕家21歳の時のもので、河内平野で死闘を続ける戦地で書き留めたものである。文武両道に秀でた優秀な若大将であったことがよく判る。時の天皇へ辛辣な直訴文を書き記せる顕家の心情は、忠誠を尽くし南朝に捧げる悲憤を感じさせる。
 和泉で奮戦していた顕家だが、高師直は天王寺から堺浦に出撃した。これを受け堺浦で両軍は激突した(石津の戦い)。善戦した顕家ではあったが、連戦の疲労に加えて、北朝方についた瀬戸内の水軍の支援攻撃を受け潰走した。石津で北朝方に包囲され奮戦したが、落馬を機に討ち取られてしまった。上奏文を書き上げた一週間後のことで享年21という若さだった。
 神社境内に建立された顕家の像は大阪の阿倍野神社に祀られたものと同じ銅像である。阿倍野神社の銅像はNHK大河ドラマ「太平記」が放映されたことを記念して平成3年に建立されたもので、除幕式には親房・顕家親子を演じた近藤正臣・後藤久美子も列席した。

  いかにして伊勢の浜荻(はまおぎ)ふく風の
            治まりにきと四方(よも)に知らせむ

 顕家の銅像の隣には顕能の歌碑が建つ。南北朝時代に成立した准勅撰和歌集で、南朝3代50年にわたる、皇族、廷臣、后妃、女官、僧侶など150名あまりの詠歌を収めた『新葉和歌集』に載せられた顕能の和歌で、「前右大臣」と記されている。18首あるうちの最も代表的なもので、戦乱に明け暮れた伊勢国司としての永い生涯を顧みて、郷土の平和を希求し南朝の安泰を祈らずにはいられなかった切実な心境を窺うことができる。

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 さらに境内の奥には留魂社(りゅうこんしゃ)が鎮座し、北畠具行、北畠満雅、北畠具教をはじめ北畠一族ならびに家臣、郎党、農民の戦死者を祀っている。具行は北畠家初代雅家の孫にあたり、北畠宗家四代目の親房とは従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房とともに後醍醐天皇に仕え、和歌にも優れている。宗家は幼少の顕家が継いだので、具行はその後見人となった。
 伊勢国司北畠家の三世満雅は、元服時に室町幕府第三代将軍足利義満から偏諱を賜った。応永二十一年(1414年)皇統が明徳の和約(北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)間で和議と皇位継承について結ばれた協定:皇位は両統迭立)に反し、持明院統から大覚寺統に譲られないことを不服とし、伊勢で挙兵し幕府方についた小造俊康を攻め落とした。
 六代将軍義教は後小松上皇と謀り、持明院統方で皇位を継承する。これに不満を持った後亀山法皇の孫・小倉宮聖承は満雅を頼り反乱を起こすが、激怒した義教より派遣された幕府軍に攻められる。北畠勢は雲出川において幕府軍を敗走させるも、土岐持益、山名宗全らの支援部隊に攻め込まれ、伊勢阿濃郡岩田の戦いで討ち死にした。この戦いで北畠家は一志郡、飯高郡を失った。留魂社の由緒書きがとても名文なのでそのまま記す。

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由緒
 南朝及び後南朝と伊勢国司家とのつながりは、約百年間に亘っている。それより前に、後醍醐天皇の倒幕計画があり、之に加わった具行公は北條氏に殺された。北畠氏最初の犠牲者である。北畠親房公、顕能公等に従って各地に転戦し、陣中に没した将兵の氏名は不明であり、その数も詳らかでない。應永・正長年間、後南朝皇子を奉じて、両度の合戦において、足利の大軍を撃破しながら、遂に武運拙く討死した満雅国司ですら、その馬前に斃れた武士達の殉難については、何の記録もない。然し大義に殉じた英魂は一切平等であり、もとより上下の差別はあろう筈もない。
 群雄割拠の世となり、戦国の覇者となった織田信長の謀略に屈して、北畠氏は滅びたが、名族の末路はまことに脆く、哀れであった。本拠地多気の霧山城を始めとして、大河内、阿坂、田丸の諸城、各地に散在する砦に立篭る武士達は、節義を守り、潔く主家と運命を共にした。具教公と幼君は三瀬の館で、また内室や姫君達は田丸城内で、いずれも逆臣の手によって果てたのである。森城、篠山城が落ちて、再興の途も絶えた。
 武勇を謳われ、悪戦また苦闘の末、鬼神を哭かしめる壮烈な討死を遂げた北畠の一族や上級家臣の多くは、文献にその名を列ねているが、後世に知られぬままに埋もれた武士の魂は、幾百年の星霜をいずこの空にさまようたことであろう。
 今こそ、国司家「割菱」の旗印の下に散った英霊は、み魂のふるさとに帰り、始祖のお側に侍って、とこしえに安住の地と鎮まりませと念じつつ、ここに神祠を設け、名付けて留魂社とした。


<北畠氏御所跡>

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 北畠氏御所跡は北畠神社境内を中心とする東西約110m、南北約200mの範囲に広がる。山裾から川沿いまでの斜面を三段で構成されており、山裾から石垣までの上段、道路・民家までの中段、川沿いの耕作地の下段となる。中心的な遺構部分は上段に集中している。正確な時期は明らかではないが、16世紀初期に大造成が行われたと考えられ、この時期を境に前期と後期に分けられている。
 前期は北畠三世満雅から五世具方の頃までと考えられ、基礎建物一棟、掘立柱建物一棟が確認されている。それ以前の顕能、顕泰のころの遺構は残念ながら見つかっていない。後期は大造成が行われ、上段が拡張された。礎石建物三棟、掘立柱建物七棟が確認されており、この時期に庭園が築造されたと考えられている。神社境内を歩いていると大小の案内板が目につく。どれも「石垣」という文字が書かれているが、中でも一番大きな案内解説板には「中世館跡では日本最古の石垣」と書かれている。平成9年に実施された発掘調査(第4次調査)では、長さ15m以上高さ3mの石垣が見つかった。およそ15世紀前半に造られたと考えられ、中世の城や館で使われた石垣としては、全国で最も古い事例という。


 石垣は川原石を使ってほぼ垂直に積まれており、石垣の裏側には排水をよくするための栗石は使われていない。その後に行われた地中レーダー探査では、石垣の長さはおよそ80mにも及ぶ壮大なものだった可能性も出てきている。さらに第5次調査では石垣に続くと思われるスロープ状の張り出し部が見つかった。これは石垣へ上る「入り口」であったと考えられている。
 ふるさと資料館で見た模型を思い浮かべながら目の前の情景を観察してみると、どうしてもここに御所と呼ばれた居館があったとは信じがたい。山の麓に位置するため、間口方向にはいくらでも敷地は広がるのだが、奥行き方向にはほとんどスペースが確保できない。これでは斜面に館を建てるような感じになりそうなのだが、ひょっとすると現代人の我々が想像する以上に狭く小さな建物だったのだろうか。
 留魂社の隣地には手がかりとなる礎石建物跡が発見された。柱間2間×2間の身舎に東側に縁側が付いていたという。北側には通路と考えられる石敷きがあり、面積が小さな建物であるにもかかわらず、礎石を使用し全面に束柱を持つという構造から、格調高い建物であったと考えられている。あらためて御所内の常御殿を確認してみると、間口3間ほど、奥行きは多くて5間、主殿の方はもう少し小さく、間口2間、奥行き3間ほどになろうか、実に20平米から50平米ほどにしかならない。この程度の建坪なら目の前の敷地でも十分建てられる。残念ながら2間×2間の建物が模型のどこにあたるのかまでは判らない。というのも、三重県は発掘調査は実施しているものの、その上の建物の復元については何ら言及されていない。
 発掘調査については、昭和57年に初めての調査が実施され、石組みなどが検出された。初めて遺跡の重要性が知られ、平成3年から4年にかけて霧山城跡の公有地化に着手し、6年から7年にかけて美杉村の遺跡分布調査を実施し、多気の平地部全体に点在する寺院や遺跡を総括して「多気北畠氏遺跡」とした。8年から本格的な学術調査を開始し、2時期の整地層を確認するという素晴らしい成果を上げた。9年には前記の石垣とそれに取り付く出入り口が確認され、石垣については中世城館のものとしては国内最古であることが確認された。その後、毎年のように調査を継続し、平成18年3月に市町村合併による美杉村から業務を引き継いだ津市から国史跡指定申請書が提出されたのを機に、およそ10年に及ぶ調査を一旦終えひとつの節目を迎えた。
 平成21年3月に津市教育委員会は、「史跡多気北畠氏城館跡保存管理計画」を策定した。この計画書によれば、「沿革と目的」にはじまり、「史跡の概要」「保存・管理」「整備・活用」「今後の方針と課題」と、総合的に業務を把握しようとする姿勢がよく表れている。特に今後の方針では、平成18年~22年までを第1期調査とし、上多気六田地区の調査を開始し、六田館跡とその周辺の城下の解明と幹線地割の様相、形成時期の確認を目的とした。ついで平成23年~27年までを第2期調査とし、六田地区周辺部の実態を明らかにした。第3期調査については、1期・2期調査の結果を踏まえて検討するとなっている。
 ようするに、昭和57年の最初の発掘調査から今も発掘調査を継続しており、とても御殿の上屋を復元検討する余地がない状態にあることがわかる。しかし一番の問題は神社が鎮座していることに尽きる。神域であるがゆえに調査は不可能で、おそらく北畠氏御殿の痕跡が残されていると思われるが、神社の移転がない限り誰も見ることができない。

多気城下絵図

 ここで、この計画書に基づいて、北畠氏御所について触れておきたい。北畠氏は村上源氏を始祖とし、伊勢国との関わりは北畠親房が延元元年(1336年)に伊勢国田丸に下向したことにはじまる。延元三年には三男の顕能が伊勢国司に補任され南朝側の中心勢力になるが、伊勢守護仁木義長に攻められ田丸城をはじめ各拠点が陥落すると、興国三年(1342年)頃に本拠地を一志郡多気に移し、ここに霧山城と館などを築いたといわれれいる。「伊勢の小京都」とも呼ばれ、戸数3500、寺院40を越す城下町を形成し、伊勢の山間地に京の文化の華を咲かせた。そして240年にわたって伊勢国司として君臨した。
 江戸時代に描かれた多気城下絵図によれば、戦国期の町には20か所余りの寺院が描かれている。また、呉服町、紙屋町、具足町、魚屋町、八百屋町、鍛冶町などという書き込みも見られる。これまでの調査で、絵図にも描かれている大蓮寺や松月院の跡が確認されている。また、寺院の伝承地には広い平坦面や石垣等も残っていることが分かってきており、実際に多数の寺院があったことが確認されている。
 六田地区の発掘調査では、多数の掘立柱建物が発見されており、井戸も付随している。六田地区には「東の御所」と呼ばれてる六田館跡もあり、周囲が掘で囲まれていたことが確認されている。また、建物の方向や地割には規則性があることが分かっており、北畠氏による計画的な町づくりがうかがい知れる。
 往時の北畠氏の勢力範囲は多気の地にとどまらず、およそ伊勢国の一志郡以南の諸地域に及び、一時は伊賀国や大和国の南部もその支配下に治めていたといわれている。また、京都の公卿や武将の下向もあり、文化人の来訪もあった。たとえば、大永二年(1522年)に連歌師宗長が伊勢より初瀬へ行く途中で、多気において連歌の会を催し、同じ頃に門人の宗碩も初瀬から伊勢参宮の途中で、多気で国司に対面している。
 この緑の濃い山奥にきらびやかな城下町がかつてあったとはにわかに信じがたい。そのため、自分では勝手に「幻の都」と呼んでいる。出来れば体が丈夫なうちに往時の城下町の再現がなされることを大いに期待したい。


<北畠氏御所跡庭園>

 神社の南に隣接して庭園がある。周りは垣で囲われており、入館料が必要となる。北畠氏居館の遺跡で昭和11年に国の「名勝及史跡」の指定を受けている。津市のサイトには七世晴具が造ったと記載されているが、大きく捉えればそういえなくもない。しかし神社のパンフレットによると、実際に作庭したのは、晴具時代の管領細川高国と伝えられている。発掘調査の結果、16世紀代の造営であることがわかり、高国の作庭という説に合致していると判断している。なお『伊勢国司記略』には、「相阿弥の作りし庭と言ひ傳る由なり」と書かれている。

 庭園は一度だけわずかな発掘調査が行われ、池が後期大造成の上に作られていることが判明した。奈良の興福寺大乗院の僧侶である尋尊(じんそん)の日記『大乗院寺社雑事記』には、明応八年(1499年)に北畠氏の館が全焼し翌年四月に再建されたことが記録されている。そのため、大造成が行われたのはこの時である可能性が高いと考えられている。
 大造成とは上段を東に約25mほど拡張するもので、使う土の量は10トンダンプでおよそ1100台分にもなる。このような大工事をわずか数ヶ月で完成させた北畠氏の財力は絶大なものがある。この時期に北畠氏は木造氏などの一族との内紛に勝利し、南伊勢各地への支配を広げて戦国大名へと飛躍したと考えられる。上段の拡張と庭園の造営は戦国大名としての北畠氏を象徴する一大事業といえる。
 庭園は「接客の場」と考えられており、近年の研究から、戦国時代には各地の大名たちが競って庭園を造ったことが判かってきている。大名たちは当時の最先端文化を取り入れることにより、大名としての権威、風格をアピールするために造ったといわれている。よって北畠氏もこのような目的で庭園を造ったものと思われる。一般的に庭園は築山の奥に広がる借景を含めて鑑賞することが正しい見方とされているが、ここの庭園にも築山が設けられていることから、東に位置する局ケ岳を借景とした構成を念頭に置いた作庭と思われる。
 門をくぐるとそこに広がる庭園は、中世の時代に造られ今日までそのまま残されている。豪快な石組みによる護岸を持つ池と、その東側に築かれた須弥山石を中心に九山八海を表したという立石枯山水が特徴となっている。手渡されたパンフレットには詳しく解説されており、なかなかの名文で簡単に要約しにくいので以下にそのまま記す。

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(前略)
 総面積約850坪、武家書院庭園であり、池泉鑑賞様式となっている。池の汀線が複雑に屈曲しているため、古くから「米字池」の名で知られ、護岸の石が大きく、堅牢で、その配列に工夫が凝らしてあるので、480年の風雪に堪えて、しっかりとこの池を抱いて、守っているのである。
 築山の全体的な景観は豪華である。天正四年の落城からすでに400余年を経ているが、恐らくは、その頃廃墟の跡に植えられた杉が、今は目通り4,5メートルの巨木となって悠然と聳え立っているのであろう。その山裾にひろがる枯山水はまことに立派で、当代庭園中でも屈指の作品であることは、専門家の一致した見解である。中央に六尺四寸(約1,9メートル)の立石(孔子岩と称す)が王者の風格を備えて立ち、これをとりまく十数個の石群がひれ伏すように、あるいは蹲(うずくま)って教えを聴くように、さりげなく散在すると見せながら、まとまった一つの姿で石組みを構成している技巧は素晴らしい。少なくとも一つの石の形やその美しさを誇張することなく、全体としての調和と落着を静かに印象させ、しかも山や水、また緑の樹々と共存し、共栄するという、枯山水の様式としてはまことに珍しいものであることが高く評価せられている。
(後略)

 パンフレットの名文は実に素晴らしいが、目の前の庭園は少し残念な印象を持つ。端的に言えば、池や石、築山のスケール感に対して樹々が大きすぎる。造られてから400年余りの時間が経過する中で、おそらく手入れを継続されていないのが、大木となった樹々の対処だと思われる。したがって石橋からどの方向を見ても見通しがきかず、山々を借景にしたと思われる本来の庭園の姿を見ることができない。
 池の周りを歩きながら様々な角度からいろんな表情を堪能できるはずの景観は、伸び放題となった樹々によって遮られ造営時の素晴らしさを追体験することができない。京都や奈良の庭園が素晴らしいのは、日頃の手入れもさることながら、樹々の剪定をしたり、植え替えをしたりと、できるだけ造営時の姿を維持することに神経を使っていると思われる。
 その違いがこの庭園からは感じられる。池の水面に照り輝く太陽の光が反射して、樹々の葉っぱに反射する様はとても美しい。人が狙って作ったのではなく、自然が生み出す偶然の一瞬が美しいのである。作庭者細川高国はきっと草葉の陰で悲しんでいることだろう。
 日本の文化財に対して、半世紀もの時を経た煤ぼけた仏像や建物を見て、渋いとか美しいとか素晴らしいとかという印象を持つ人が多いが、自分の捉え方は、100年をひとつの節目として創建もしくは造営当時の姿を再現することで、文化財を維持していくという考え方を持って欲しいと強く思う。
 造立当時の仏像は眩しいばかりの金色に輝いており、創建当時の寺院は清々しいばかりの佇まいであったはずである。最近の事例でいえば、宇治の平等院が平成24年から26年にかけて、屋根の葺き替えと柱などの塗り直しが行われた。創建当初ではなく、少し年代が降って色合いが落ち着いた時期を想定しての復原となっているが、とても素晴らしいことだと思う。簡素ながらも目の覚めるような朱にかがやく神社と、伸び放題の木々に囲まれた庭園を見比べて、残念な気持ちを抱く人はほとんどいないことだろう。

<参考>

『建武中興 後醍醐天皇の理想と中心たちの活躍』久保田収
『北畠氏と修験道〜伊勢山上のミステリー』田端美穂
『北畠太平記』横山高治
『花将軍 北畠顕家』横山高治
『北畠顯家卿』中村孝也
『北畠氏と吉野朝』平田俊春
『日本古典文學大系87 
神皇正統記・増鏡』岩佐正・時枝誠記・木藤才蔵
『日本思想大系22 中世政治社會思想 下』笠松宏至・佐藤進一・百瀬今朝雄
『日本中世史を見直す』佐藤進一・網野善彦・笠松宏至
『論語』加地伸行
『歴代天皇事典』高森明勅
『完全保存版 天皇125代』宝島社
『北畠父子と足利兄弟』久保田収
『虚心文集 第2』黒板勝美(
国立国会図書館デジタルコレクション)
『近古文學選』新町德之(
国立国会図書館デジタルコレクション)
『群書類従 第2』経済雑誌社(国立国会図書館デジタルコレクション)
「北畠氏館跡」津市教育委員会(パンフレット)
「多気城下町絵図の世界」(パンフレット)

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愛しの顕家様のぺえじ


北畠神社
所在地   三重県津市美杉町上多気1148
入園料   300円
問合せ   059-275-0615
公式URL  http://www.tsukanko.jp/spot/183/

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